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今日考えたこと

2020年3月20日 (金)

ブログ再開のご挨拶

たいへんご無沙汰いたしております。セミナー講師のすみぶちでございます。

このブログに最後に投稿したのが2011年11月28日 (月) となっておりますので、かれこれ8年もお留守にしていたことになります。このたび、弊社のHPを大幅リニューアルを予定しておりますので、この機会にブログの方も再開することにいたしました。また、HPの方にブックストアというとてもしょぼいコーナーがあったのですが、こちらもパワーアップを計画しており、店長に私の分身ともいえるスミズク氏を起用しました。スミズクの店長ブログ(店長のつぶやき)も同時オープンとなります。こちらも宜しくお願い申し上げます。

さて、再会早々あまりうれしいお話ではないのですが、世の中、新型コロナウイルスに対する懸念の声だらけですね。イベントなど人が集まることで成立するビジネスや、客が来てくれなければ売り上げが立たない飲食業などはまさに存亡の危機ともいえる状況だと思います。わたしども教育ビジネスも例外ではなく、この3月については講座の延期・中止のお話が多く、講師仲間の間でも開店休業状況だという話でもちきりです。

このブログを書きは込めてすぐの話として、東日本大震災がありました。決して過去の思い出話ではなく、まるで昨日のことのように思い出されます。今回の感染拡大でも世の中の雰囲気はちょっと似たところがありますね。地震のときも福島原発がこれからどうなるのか、とても不安でした。今回はどうすればこの状況を克服できるのかが見えてこないという意味で出口の見えない不安を感じます。

リスクに対しては可能な限り賢明な選択をし続けることが大切ですが、考えても仕方のないこと、例えば漠然とした不安な感情を反芻することなどは避けたいものです。私はいま、今回のことはとても不幸なことではあるものの、この空いた時間を活かせとの天の声でもあると捉えています。今回のHPのリニューアルも、これまで通り講師の仕事でとび回っていたのでは決してできないことだと思います。

感染症を喜ぶなどあり得ない話ですが、どんな不幸にも細い光明がさすこともあるという理解で、前向きに進んでまいりたいと思います。今年は講師として本格的に独立開業してちょうど10年の節目になります。何年か経った頃、振り返ってみて「大変だったけど、あれはあれで良かったのではないか?」と感じられる1年にしたいものだと思います。

すみぶち塾Sumizuku

 

2011年11月28日 (月)

講師の「相棒」

男性の方であれば、少年時代に野球に熱中した経験をお持ちの方も多いと思います。私もご多分にもれず、結構熱くなった方です。といっても運動音痴で、「下手の横好き」をまさに地で行く感じでしたが。

そんな私が野球にのめりこめたのは、チームが弱かったからです。田舎の話で、都会のようなリトルリーグのチームなどは影も形もなく、わずかに地域(町別)対抗の野球大会が年に2回開催されるだけでした。わが古城町チームは、私がキャプテンになる前年は、スタメンのほぼ全員が6年生で構成される最強チームでしたが、私の代には6年生がわずかに2名。しかも私も含めて運動は苦手と来ています。対抗戦では常にコールド負けで、相手チームからはフリーバッティングだと思われていました。次の試合に備えた打撃練習扱いだったんですね。悔しい記憶には違いありませんが、今となってはいい思い出です。

その後、大人になるまでほとんど野球に関わる機会はなく、娯楽としての試合観戦程度でしたが、そんななかで捕手というポジションの重要性に気づかされる場面がたびたびありました。何しろ、捕手出身の監督が多く、その多くが名監督と呼ばれるのを見て来ましたし、何といっても野村(克也)監督の印象が非常に強かったと思います。チームの他のメンバーと逆方向を向いている捕手とは、野球の要なんですね。

先々週の記事で書いた川口投手は、広島時代の女房役の達川捕手と、サインの適否をめぐって対立した際、「打たれたらこっちのせいですからね。」と苦情を言ったそうです。投手から見れば、打者を抑えられたら捕手の手柄、打たれたら投手の責任にされるという印象があるのでしょう。一方、捕手から見れば、打たれたら「なぜ、あそこでそんなサインを出したんだ!」と監督に叱られるのは捕手の役目、という理解もあるようです。どっちもどっちですね。

しかし、客観的に判断すると、打者のことをよく知っているのは捕手だと思います。なぜかって、投手は何日かに1回、それも9回未満の登板ですから、毎試合9回まで打者と対峙する正捕手には情報量でかなわないはずです。しかも、投手は自分の球に対する打者の対応以外は、VTRで確認することしかできませんが、捕手はそれを目の前で確認できています。情報の質の点でも捕手が上だと思います。ですから、投手は捕手のサインを重視するのでしょうし、ベンチも捕手のリード責任を厳しく追及するのだと思います。

ところで、我々セミナー講師の世界でも捕手に相当する存在がいます。営業担当者がそれに当たります。なぜでしょうか。

彼らは担当クライアントをもって活動しています。1つのクライアントに対して、さまざまな講師を紹介し、多数の研修を実施しています。講師の方は、自分の担当講座を通してのみそのクライアントを理解することになります。クライアントを理解する、という意味では、講師は営業担当者にかないません。

研修の仕事を受注する際には、「企画書」と呼ばれる提案資料を作成します。クライアントの要望をヒアリングし、最適なプログラムを設計して提案するのですが、初めてのお客様の場合、結構悩みます。研修も複雑なものになれば、注意深く検討しなければとんだミスマッチを引き起こし、お客様をがっかりさせてしまいます。こんなとき、このクライアントに精通した営業担当者のアドバイスがあれば心強いものです。

ベテランの中にはクライアントと講師の両方を知り抜いている人もおり、こんな営業担当者の場合、クライアントの要望を聞いた後、自分で提案書を作成し、「こんな感じで出しといてもいい?」と確認のメールをくれることもあります。講師としては大助かりです。コンサルティングの提案ではさすがにこんな芸当はできませんが、提案内容を大きく制約する提示金額については、「500万円くらいでいい?」などと聞いて、それを前提に提案内容を考えることもあります。

私はゴルフはやりませんが、ゴルファーにとってのキャディーもこんな役割なんでしょうか?

ただし、すべての営業担当者がこのような信頼を得ているとは限りません。残念ながら、本当に信頼できる営業担当者は少ないと感じます。信頼できない場合には、自分の経験に基づくことや、先輩講師などのアドバイスに従うことが賢明でしょう。彼らのアドバイスを盲信するわけにはいきません。捕手のサインに首を振るわけです。

元捕手で西武ライオンズの監督をつとめた伊東(勤)さんは、駆け出し時代の悔しい思い出として、投手がバックネット裏のスコアラーのサインを見て投げてきた話をされています。自分のサインと投手が投げる球が違いすぎるので確認したところ、この事実が判明したそうです。ひどい話ではありますが、捕手の経験が浅くてリードの力量が低く、投手の側も勝てなければ飯の食いあげですので分からなくもありません。

捕手が信頼できる人であれば投手も楽でしょう。同様に営業担当者を信頼できれば講師も楽です。私にも信頼できる営業担当者が幾人かいます。彼らと仕事をするときは、「いい仕事をしよう」ということだけ考えていればすみます。また100%の信頼ができなくても、クライアントの情報を多く持っている営業担当者の話には耳を傾ける価値があります。経験の浅い講師の場合、営業担当者の役割を軽視し、自分ひとりでがんばっている人もいますが、もったいない話です。

水谷豊さんのドラマじゃないですが、「相棒」って大切ですね。

すみぶち塾Sumizuku

2011年11月21日 (月)

サービスのプロ

ワイン好きの方であれば、田崎眞也さんをご存知の方が多いと思います。95年にアジア人としてはじめて世界最優秀ソムリエになった方です。田崎さんはシェフソムリエとも呼ばれ、料理の腕も一流で、TV番組「料理の鉄人」で鉄人に勝ったこともあります。現在、国際ソムリエ協会の会長として、ワインの普及とソムリエの質的向上に尽力されています。

その田崎さんがよく口にされる言葉に、「ソムリエはワインの専門家である前に、サービスのプロでなければならない。」というものがあります。ソムリエとは、レストランで食事をするお客様が、料理に合わせてワインを楽しむのをサポートする接客業であるという意味でしょう。

田崎さんが危惧されるのは、ソムリエがワインの専門家気取りで、ワインに疎いお客様に対して薀蓄を傾け、まるでお客様をばかにするかのように、「そんなことも知らないんですか?」といわんばかりの対応をすることです。確かにワインは奥の深い飲み物であり、産地や歴史、料理との相性など、本格的に楽しむためには多くの知識が求められます。しかし、こういった知識のない一般のお客様をサポートするのがソムリエの仕事であるはずです。むしろ、そんなお客様がいるからこそ、自分たちが「飯が食える」のであり、感謝しなければならないはずです。

私はソムリエがいるようなレストランにはめったに行きませんが、世の中には自分に与えられた使命が理解できず、独りよがりの仕事をしているソムリエが結構な数いるようです。フランス料理店のオーナーシェフの中には、「ソムリエを置かないほうがサービスの質が向上する。」と言い切る方もいると聞きます。ソムリエの普及に尽力される田崎さんとしては、なんとも歯がゆい話だと思います。

似たような話がコンピュータの世界にもありました。私は20代のころ、ソフトウェアハウスでSEの仕事をしていました。そのころ、「SEと話をするのは不愉快だ。」とおっしゃるお客様に多く出会いました。「SEと話をすると、ばかにされているような気がする。」というのです。「そんなことも知らないのですか?」と言わんばかりの対応が目立っていた気がします。パソコンが普及し始めたころにも、同じような話が多発しました。ご記憶にあるのではないかと思います。

ワインとは性質が異なりますが、コンピュータも複雑な機器ですし、ソフトも多様です。使いこなすにはかなりの専門知識が必要になります。そして、それをサポートするのがSEです。にもかかわらず、コンピュータの専門家を気取って、知識のないお客様を見下し、ばかにするような仕事ぶりのSEが多かったのも事実です。ソムリエと同じ現象がSEの世界にも見られます。

SE出身ということもあり、10数年前までは私もSE教育に携わってきました。若手のSEを指導する際には、先輩SEからの助言として、「SEとはSystem Engineerの略だと思うな。接客(Sekkyaku)の専門家(Expert)の略だと思え。」と伝え続けてきました。「SEとは接客業である。」ということを後輩たちに理解して欲しかったのです。とくにビジネスシステムを扱うシステムアナリストやアプリケーションエンジニアと呼ばれる職種では、業務支援システムをお客様と二人三脚で構築していく仕事を請け負う以上、接客の意識(おもてなしの精神)がなければ仕事にならないと思うのです。

翻って、セミナー講師はどうでしょうか。

さすがに、「そんなことも知らないの?」はないだろうと思いたいのですが、残念ながらそうでもないのです。もちろん自分が今からしゃべろうという知識を受講者があらかじめ持っているとは考えないでしょうが、それを理解するための前提知識については、「そんなことも・・・」はあるようです。自分の説明が下手で受講者が理解できないということを認めたくなくて、説明し忘れた部分について「当然知っているものだと思っていました。」と言い訳をするのです。要は説明が下手なのです。そして犠牲になるのは受講者です。

物事を説明する際には一定の順序というものがあります。前提となる基礎知識を理解してもらい、一定の前提条件をおきながら応用的な知識を説明する、という具合です。ところが、準備不足の講師や教え方の下手な講師は、いきなり自分がしゃべりたいことから話し始めてしまいます。もちろん、受講者の知識レベルからみて、あまりにも初歩的な説明から入るのはかえって失礼でしょうし、時間のムダになります。しかし、そういう場合には、「○○については、既にご理解いただいていると考えてよいでしょうか?」という程度の軽い確認を入れながら講義を進めるべきです。

ただし、こんな講師は単にスキルが低いだけですので、経験をつめば直っていきますし、そうでなければいずれ淘汰されるでしょう。始末が悪いのは、受講者が理解できないとわかっていて、とうとうと難解な知識をしゃべり続ける講師です。本人は「自分はこんなに難しいことを知っているのだ。」と自慢したいのでしょうが、それは己の立場をはき違えているとしか言いようがありません。こんな講師につき合わされる受講者こそいい迷惑です。さらに困ったことに、この手の講師は難しいことをしゃべれるだけに、「上級編」などの講座を担当しつつ、生き残っていく可能性が高いのです。ただし、上級講座は相対的に開講数が少ないため、しょっちゅう初級編や中級編にも降りてきて、受講者を困惑させる困った存在になります。

先週の木曜日、今年のボージョレー・ヌーボーが解禁になりました。近所の酒屋のワインアドバイザーの話では、「今年は重くもなく、軽すぎることもなく、とっても飲みやすいですよ。」とのことでした。ヌーボー(新酒)をのみながら、初心(新酒時代)にかえって、己の講義を反省してみたいと思います。

でも、「わかりやすくて、質問も出ない。」では、講師としてもさびしいでしょうね。

とりこし苦労な一言を添えて、蛇足とします。

すみぶち塾Sumizuku

2011年11月14日 (月)

アウトコースへの配球

川口投手の話の続きです。

川口さんは縦に大きく曲がるカーブとインコースに食い込む剛速球が持ち味の投手でした。この剛速球のおかげでプロ入り3年という短期間に先発投手の地位を勝ち取ることができました。しかし、4年目にスランプが訪れます。打者に配球を読まれて、打たれるようになってしまったのです。

このスランプの最中に、大野(豊)投手と大先輩の江夏投手に「アウトコースの球を覚えろ」というアドバイスをもらっています。この2人は師弟関係で、ともにアウトコースを主体としたピッチングで勝負する投手です。

素人目にはさっぱりわからないのですが、なんでもアウトコースの球には球威は不要なんだそうです。インコースの球を投げるのに10の力を使うとすれば、アウトコースは7でいいそうです。その代わり絶妙なコントロールが求められるといいます。江夏さんいわく、「アウトコースはカウントも稼げるし、三振も取れる。勝負球にもなる。」ということです。そして、スピードはいらないからコントロールをつけろ、というアドバイスをされたそうです。

この話を聞いたときも、「そうだ。その通り!」と膝を打ちたくなりました。講師の世界にも全く同じことがあります。

インコースの球というのは、受講者をその気にさせて意識の変革を求めるような講義内容にあたると思います。このような成果を実現するためには、理論や事例などを語るだけではダメで、時代背景や受講者の勤める会社の風土、そして業務特性などを十分に理解し、彼らの心に響く言葉を選びながら、「そうだ、私がやらずに誰がやる!」という強烈な行動意欲を起こさせなければなりません。そのためには、そこに至るまでの講義の中で、彼らが大切にしている価値観やどんな言葉に反応しやすいのか、といった点を把握しておく必要があります。また、どんな言い方が彼らの心に響くのか、という伝え方の工夫も検討しておく必要があります。そして、一回だけでは伝わらなければ何度でも伝える。言い方を微妙に変えながら繰り返し訴えかける、といった力技になります。当然、講義だけでなく演習などもふんだんに用いられます。

これは結構大変な作業で、1つのセッションを終えただけでそこそこくたびれます。

それに対して知識学習中心の講座ではこのようなエネルギーの集中は不要です。正しいことをわかりやすく説明すればよいのです。知識を正確に覚えておくことも、伝え方の工夫も事前の準備が可能です。講義では準備したことを粛々と語っていけばよいのです。さほど疲れることもありません。時間も稼げますし、これだけでも研修として成り立つことも多いものです。まさにこれはアウトコースの球に相当すると思います。

講師の仕事をやったことのない方は、「演習中は講師は楽でいいですね。」とおっしゃいますが、本気で演習指導を行うのはとても大変です。むしろ講義で息抜きをしている感じです。ある会社で偉い方から、「演習の時間は講師を遊ばせるだけで、研修費がもったいない。」といわれたことがありますが、実際は違うんですね。しゃべっていれば時間が過ぎていく講義は、むしろ講師にとっては楽なのです。

最近の研修は前者の比重が増大しており、講師受難の時代が来たのかもしれません。

ここでも、「楽をしていては良い研修はできない。」ということがいえると思います。

すみぶち塾Sumizuku

2011年11月 7日 (月)

ベースと勝負か、バッターと勝負か

広島カープから巨人に移り、96年の長嶋監督のメークドラマの立役者となった川口和久さんが、「投球論(講談社現代新書)」という本を書かれています。投手がマウンドで何を考え、チームメイト、とくに捕手とどのように向き合っているかを、ご自分の体験をもとに綴った好著です。

その中で、ブルペンでのピッチング練習の様子が描かれたくだりがあります。

川口さんは、ブルペンの投げ込みが苦手だったそうです。野球ではホームベースとバッターがいて初めてストライクゾーンが生まれます。だから、バッターのいないところに投げるのは意味がないということですが、本音はご自身のピッチングスタイルと関係があるようです。

川口さんは決してコントロールの良い投手ではありませんでした。むしろ、失礼ながらフォアボール乱発のノーコンピッチャーといってもいいくらいでした。このような投手のピッチングは、ストライクを重ねることでバッターを三振に討ち取るというより、威力のあるボールに詰まらせて内野ゴロに討ち取ることで成り立っていることが多いようです。あるいはど真ん中に投げ込まれたボールに打者のバットを当てさせずに空振り三振に討ち取るというスタイルです。だからストライクを見送られ続けると苦しくなってきて、最後はフォアボールで塁を1つただで進呈することになります。

ピッチング練習のやり方は、コントロールの良い投手とそうでない投手ではずいぶん違うようです。同じころ広島のエースだった北別府投手などは抜群のコントロールの持ち主でしたから、ベースの角を通すとか、紙切れ一枚分はずすとか、まるで精密機械のようなピッチング練習が可能だったそうです。そしてその投球は実戦でもそのままに発揮され、多くの打者が手玉に取られました。

ところが川口さんはそんな練習はしませんでした。というより、そんな芸当は苦手でしたので、バッターに立ってもらって、彼なりの実践的な練習を行っていました。たとえば、「この打者はベースから離れてたっているから、外角には手が出ないはずだ。」とか、「こいつはベースよりに構えているから、内角のストレートにはついてこれないはずだ。」といったことを考えながら、苦手ゾーンの周辺に剛速球を投げ込む練習していたそうです。

この状況を、川口さんは「ベースと勝負か、バッターと勝負か」という言い方で表現されています。自分はあくまでもバッターと勝負しているのであって、ベースと勝負しているのではない。だからバッターのいないブルペンでの投げ込みは練習にならないということです。あくまでもバッターの出方を読んで、その状況に最適な対応を行うことで勝ちを収めるというスタイルなのです。

私はこれを聞いて、「わが意を得たり」と思わず膝を打ちたくなりました。

講師の世界では、模擬講義というものがあります。お客さんが発注先を選定する際に、そこに所属する講師にためしに講義をやらせて、上手な講師を選ぶ儀式なのですが、私はこれが大の苦手です。

模擬講義の会場では、審査員となる顧客企業の教育担当者の方が数人席に座っており、講師は順番に教壇にたち、最初の10分とサビの部分の10分などという形式で講義を行います。「声の大きさ」「説明のわかり易さ」「事例の適切さ」などという評価項目にそって採点し、トータルで最高点をとった講師が選ばれる、ということです。

ところがこの模擬講義、乗らないんですね。受講者がいないものですから、壁に向かってしゃべっているようなものです。審査員はいますが、彼らは勉強しようとして座っているわけではないので、反応は本物の受講者とは全く違います。「そうか、わかったぞ!」という反応はまずありえず、その反対に、講師が言葉を詰まらせたときにはなにやら減点記録をとっています。乗らないというより、不愉快な存在です。こんな人たちを相手に、本来の講義などできようがないじゃないですか。

結局、最後まで仏頂面で講義を続けた私は「不採用」の判定を受けることになります。わざわざ時間をとって準備までして、ばかばかしい話です。ですから最近では、模擬講義と聞くと、「だったら結構です。」と辞退することにしています。

私の大好きな芸人さんに綾小路きみまろさんがいます。彼のCD/DVDのほとんどはライブです。彼だけでなく芸人さんの場合は基本的にライブのはずです。お客さんがいなければ最高の演技はできないからです。以前、きみまろさんのスタジオ録音のCDを聞いた事がありますが、はっきり言って「聞いちゃいられない」という代物でした。なんでも警察関係のオーダーで作成された内容のようで、発注元がいろいろと注文をつけたんでしょうね。こんなCDで自分の芸が評価されるとしたら、きみまろさんはさぞかし不本意でしょうね。

講義も同じです。講師は言葉を重ねながら受講者の反応を観察し、次に紹介する話題を考えているのです。講義とは受講者と講師で形作られる生き物であり、受講者の学習意欲と講師の熱意が織り成す化学反応なのです。

セミナーとはライブである。そのことが理解できていれば、模擬講義などという茶番はなくなると思うのですが、なかなかなくなりませんね。むしろ増えている気もします。経費予算が厳しくなる中で、研修コストへの風当たりも強くなっているようで、十分な検討の結果開催された研修であることを社内にアピールする必要が出てきた研修担当者が、仕方なく模擬講義による選考会を実施しているのかもしれません。

とはいえ、講師の中には模擬講義を得意とする方もおられると思います。そんな方はきっと、投手で言えば北別府さんのような方でしょうね。講義の内容を精密に組み立て、受講者に左右されることなく、粛々と講義を展開されるのだと思います。

川口さん流に申せば、「教室と勝負か、受講者と勝負か」といった感じでしょうか。

私は受講者と勝負する講師です。

すみぶち塾Sumizuku

2011年10月31日 (月)

日ごろ使わない筋肉

むかしむかしの学生時代、私はボート部に所属しており、日々、それはそれは過酷なトレーニングを行っていました。実際に川にボートを浮かべて何十キロもこぎ続けるだけでなく、陸トレといってバーベルを持ち上げる筋トレもたっぷりやっていました。おかげで、あちこちに筋肉がつき、体全体がごつごつの不格好な姿になってしまいました。それと同時に、これだけ鍛えているのだから、どんな肉体労働も平気だぜ、と思っていました。

ところが、某引越し会社のアルバイトをした翌日、体のあちこちの筋肉が痛くて歩くのもままならなかったことがあります。「なんで?」と思いました。引越しよりきつい筋トレをやってたはずなのに・・・。

後になって、引っ越し作業ではボートを漕ぐときには使わない筋肉を酷使ししており、それが筋肉痛を起こしたんだということに気づきました。よくいう「いつも使わない筋肉を使う」ということですね。スポーツのトレーニングというのは、競技に必要な限られた筋肉を最小限の努力で鍛えられるように組み立てられており、必ずしも日常生活で必要な筋肉のすべてを網羅しているわけではないのだと教えられました。そういえば、瀬戸内で漁師をやっていた叔父は、子供のころから過酷な船上作業で鍛えられており、その後、どんな仕事をしても筋肉痛などを訴えた様子は見たことがありません。やはり実務で鍛えられた体は強いんですね。

この話は筋肉だけに限らないと思います。

講師業をやっていると、自分の専門領域の知識はやたらとたくさん、かつ深く身に付きますが、その知識だけでビジネスの実務ができるかというとそうはいかないのです。たとえば、人事制度を構築したり、評価者研修の指導を行っていると、「人事制度はどうあるべきか」とか「評価のスキルの重要ポイント」などはかなり高度なレベルで語れるようになります。しかし、「それなら当社にきて、人事課長に就任してください」といわれて務まるかといえば、まず無理でしょう。人事課長は人事制度の運用だけを行っているわけではないからです。

人事課長の仕事には、給与計算(税務、社会保険事務を含む)や労働衛生管理(健康診断や産業医とのやり取りを含む)、採用や退職の事務手続き、そして社内で日々発生する様々な人事トラブルや苦情処理など、人事管理のテキストには出てこない膨大な仕事が待っています。講師の持つ知識だけでは到底処理しきれません。

だから、講師は身の程を知らなければならないと思います。自分は特定の知識領域のスペシャリストではあっても、受講者(実務を支えている人たち)にとって代われるものではないということをしっかりと肝に銘じておく必要があります。そう思って、謙虚な気持ちで教壇に立つ必要があるのです。

と同時に、これらの実務知識についても、可能な限り情報収集を行い、少なくとも知識レベルでは理解しておく努力は必要です。普段は使わない筋肉を鍛えておく、ということです。

実務の中で「内部統制制度の整備を進める」といった場合、根拠法令や内部統制の技術的な知識が必要なことはもちろんですが、それだけでは足りません。マネジメントの現場で交わされるやり取りの特性や、よくある失敗例やそれに対する関係者の反応などを理解しておくことで、活きた内部統制制度の構築指導ができます。理屈を延々と語るのではなく、「○○の現場では、よくこんなことが起きますよね。」といった話ができれば、受講者は学習中の知識と自分の仕事を結び付けやすくなり、より深く確実な学習が期待できます。

にもかかわらず、内部統制を語る講師・コンサルタントの中には、実務を知らないばかりか、講師に求められる周辺知識であるはずの法令やITの知識すらない人も結構いたりします。こんな講師に習ったのでは、内部統制「論」の勉強にはなっても、業務改革の実現は難しいでしょう。

なぜこんな残念なことになるのかといえば、専門家であることに安住してしまっている講師が多いのではないかと思います。「私は○○の専門家ですから」といえば、他のことは全く知らなくても許されると思っているのではないでしょうか。これは大いなる勘違いですね。

我々実務教育の講師は大学の先生とは違います。お客様が我々を招いて講義を聞くのは、学問をしたいからではなく、特定の経営課題に答を出したいからです。だとすれば、その課題に取り組むために必要な知識などは、可能な限りオールインワンで提供すべきものでしょう。それがビジネスというものです。その発想がないから、「○○の専門家」という枠から出られないのだと思います。これは一種の不勉強なのだと思います。

周辺知識を身につけることは、仕事の深みだけでなく幅を広げることにもつながります。「周辺」の範囲にとどまらず、雑食を心掛ければさらによいでしょう。マネジメントの話をしながら法律や財務・計数の話を同時にできれば、内容が立体的になり、他では聞けない講義を実現できます。すでに述べたように、世の中には「○○の専門家」の枠から出ることができない講師が大勢いるわけですから、差別化戦略としてもきわめて有効です。しかも、講師の専門分野にもはやりすたりが存在します。自分の専門分野の1つがすたれても、他の分野で稼げるように専門性のポートフォリオ管理ができるようにもなります。

「芸は身を助く」という言葉は良い意味ではなく、趣味で磨いた芸で生活しなければならないような追い込まれた境遇をはかなんだ言葉だそうですが、いいじゃないですか。たくさんの芸を持てば、人生の選択肢も広がりますから。

ただし、器用貧乏にだけはならないように。くれぐれも。

すみぶち塾Sumizuku

2011年10月24日 (月)

外科と内科、どっちが偉い?

このところ、このブログではお医者さんの話が続いています。今回で一段落としましょう。

長年、いろんな職場を訪問し、さまざまな職種の方とお話していると、専門家の間では、いわゆる近親憎悪が結構多いようですね。公認会計士は税理士と仲が悪いし、SEはコンサルタントと仲が悪い。陸軍は海軍と仲が悪いし、保健所は福祉事務所と仲が悪い。営業課長は宣伝課長と仲が悪いし、社長は専務と仲が悪い。最後のは冗談です!

長い間、お互いに縄張り争いとか責任のなすりあいとかやってるうちに、だんだんと「顔を見るのもイヤ!」という感じになるのでしょうね。それとは別に、そもそも「どっちが上か」という意味でのいがみ合いもありますね。

ずいぶん前の話ですが、医者の世界では、人間の体を総合的に診察することができる内科医が一番えらい、という話を聞いた事があります。もっとも最近では、内科も循環器内科、消化器内科、神経内科など、さまざまな「分派」に分かれており、「総合的」という看板にはやや疑問が残るのですが。

それに対して外科医の先生方も負けてはいないようです。ある大学病院の外科の先生は、「内科は診たてたあとは患者に薬を飲ませ、治ることを天に祈るだけだ。それに対して外科医は執刀ができる。患部を摘出したり、傷口を縫合して血をとめることだってできる。つまり患者を治せるのは外科医だけなのだ。」と豪語されたようです。失礼ながら言わせていただければ、縫った傷口が元に戻るかどうかは、外科医とてやはり天に祈るしかないと思うのですが。

まあ、細かい話はともかく、それぞれに言い分はあるということです。どうか仲良くやっていただきたいものです。

我々の世界にも似た話がありまして、コンサルタントとセミナー講師はどっちが偉いか、というものです。土地勘のない方には「何の話だ?」という感じだと思いますので、少々解説を。

企業が経営改善を実行する際、自力では無理だと判断された場合にコンサルタントを雇うことがあります。コンサルタントに依頼して改善を進めることを、「コンサルティングを受ける」といいますね。彼らに現状分析をしてもらい、「あるべき姿」を描いたうえで、さまざまな制度を構築したり、情報システムを導入したり、業務手続きの改善を行っていきます。これが一般にイメージされるコンサルティングという仕事だと思います。

ところがこれとは異なるアプローチのコンサルティングもあります。上のケースでは社内の制度や業務プロセスなどに課題を抱えるクライアントを想定していますが、クライアントの抱える課題はそれだけではありません。「問題意識が低い」「組織間のコミュニケーションが希薄だ」といった社員の意識や能力が原因でやっかいな問題を引き起こしているケースもあります。このようなケースでは、制度や手続きをいじっても問題は解決しないことが多いのです。このようなケースでは、教育型のアプローチが採用されます。部長、課長、係長などの経営階層ごとに、彼らに求められる能力や大切にしてもらいたい価値観などを教育していき、「できる」という自信や、「やらねば」という意識を植え付けていくのです。

前者をハードアプローチ、後者をソフトアプローチと呼ぶこともあります。前者を専門とするのがコンサルタント、後者の専門家はセミナー講師ということになります。

たとえば、「これまで、社員のやる気をそぐマネジメントが行われてきて、士気が極度に低下してしている」という事実に経営者が気づいた場合、ハードアプローチでは「評価制度の再構築」「賃金体系の見直し」「業務機能の再配分による業務負荷の平準化」など、問題があると思われる制度や仕事そのものをいじっていきます。

それに対してソフトアプローチでは、上司と部下のコミュニケーションの質を改善するための傾聴・自己表現スキルの向上や、職制を通じて経営課題の展開を可能にし、各自に期待される役割を深く理解し、お互いの役割を相互に認識できる環境を作り、風通しの良い職場を実現して行くような取り組みを行います。この場合に活用されるのが研修(セミナー)です。セミナーといっても、単なる知識伝達ではなく、現実の職場の課題を取り上げて、その解決方法を議論したり、上手なコミュニケーションのあり方を擬似体験したりといった多様な技法が駆使され、受講者自らが問題解決策に気づくことを重視します。

このように、大別して2通りのアプローチがあるのですが、しいて言えばソフトアプローチは内科、ハードアプローチは外科と言えるでしょうか。もうお分かりでしょうが、コンサルタントとセミナー講師の間で、冒頭に紹介した内科と外科の言い争いのような喧々諤々の論争があるのです。

医療のためには内科医も外科医も必要で、患者は各診療科がそれぞれの役割をきちんと果たしてくれることを期待します。悪性の腫瘍があれば早期に摘出手術が必要で、薬を飲んで気長にかまえている場合ではありません。しかし、なんでも切ってしまえば解決するわけではなく、心身症などの場合には投薬と心理療法などを効果的に組み合わせて治癒を目指すと思います。

経営改善でも同じです。評価への不満を解決する際に、役割基準が不明確で評価尺度も定められていない組織であれば、まずしっかりした仕組みを整備すべきです。この状態で意識改革など期待できるものではありません。しかし、仕組みを作ってそこに人を追い込めば組織は動くというのは暴論です。あるいは楽観的すぎます。その仕組みの意図を正しく理解させ納得させた上で、適切に運用するスキルを組織に注入する必要があります。ハードとソフト、どちらが重要だというものではないのです。

私は若いころ、コンサルタントにあこがれてこの世界に入りました。そして企業の制度や組織をいじって、いかにも「コンサルタントでございます」というつもりでおりました。そしてセミナー講師のことを「あいつらは、しゃべるだけで何も変えられない」「経営改善(経営改革)ができるのは我々コンサルタントなのだ」と身の程知らずにも豪語しておりました。

しかし今は理解できます。コンサルタントもセミナー講師もどちらもなければ経営改善(経営改革)の成功はあり得ないことを。

視野を少し広げるにも、それなりに時間がかかるものですね。

すみぶち塾Sumizuku

2011年10月17日 (月)

ハードウェアか、ソフトウェアか

最近少し落ち着いてきましたが、「脳科学」がもてはやされていますね。「脳トレ」など、皆さんははまりましたか?

私は流行に疎いので、茂木健一郎先生の本を何冊か読んだくらいで、脳科学に「はまった」ということはなかったと思います。しかしブームというのは最後はさびしいものですね。今年になって、「脳科学はダメだ」という趣旨の話がよくきかれるようになりました。

生き方や勉強法など、膨大な著書を書かれている精神科医の和田秀樹さんも、ことしの春、「脳科学より心理学(ディスカヴァー携書)」という本で、「そろそろ脳科学はよして、心理学を見直しましょう」と言っています。でも、心理学もずいぶん前に大ブームになりましたので、それをまた蒸し返すというのも「どうなの?」という気がしますが、まあそれはそれとして、和田さんの主張を聞いてみますと、こんな感じです。

脳科学というのはいわば脳のハードウェアの研究を進める学問です。たとえばうつ病の原因は脳内神経伝達物質のセロトニンの再吸収が過剰になって、思考や意欲が沈滞するのが原因であり、セロトニンを吸収する受容体(レセプタ)をブロックすればうつ症状は緩和するのではないか、といった研究成果も脳科学(より正確には神経科学)が突き止めたものです。したがって、脳科学に意味がないとか、脳科学がうそだということではないのですが、あまりにも世間の期待と現実の脳科学の研究成果が乖離してしまっており、「脳科学さえあれば、人間のことは何でもわかる」というような誤解がはびこってしまっているのは困る、というような話です。ブームだから、ある程度仕方ない話かもしれませんが。何しろ脳科学では生きた人間の脳を用いた実験が難しいため、仮説ベースの研究成果が多いことも「脳科学に期待しすぎるな」という主張の背景にはあるようです。ねずみやプラナリアの神経をすりつぶしたら、こうなっていましたから人間も似たようなものでは、というような話でしょうか。つまり、現在の脳科学には大きな限界があるということです。

それに対して心理学はどうでしょう。こちらは心、つまり脳のソフトウェアを扱います。ところで、心理学というと、みなさんは「他人の心を透視できる学問」だと思っていませんか? 実はこれ、正統派の心理学者がもっとも困惑するところです。心理学はそんな便利な学問ではありません。むしろ「人の心はわからない」という前提に立った学問だ、といった方がより正確だと思います。「わからないからこそ、行動を観察し、心を推測するのだ」という立場です。したがって、心理学の研究では何よりも実験(テスト)が重視されます。心理学の論文を書くには統計学の知識は不可欠といってよいでしょう。たとえば、「このような条件を設定して、このような作業をやってもらったところ、こんなミスが通常より○%減少した。」というような事実を押さえ、「だから人間の心にはこんな性質があると考えられる。」という結論を導き出すのです。結構、時間と手間のかかる学問ですし、バイオやITのように、企業が巨額の研究費を出してくれることも少ない領域ですので、華々しい成果が次々と生まれてくることは期待薄です。

そんなわけで心理学を面白い話に結びつけるのは本来難しいのです。にもかかわらず、最近、似非心理学者がはびこっていますね。先日、某TV局の番組で、「カレーライスの食べ方からその人の性格を当てる」というのをやっていました。出演されていた「心理学の専門家」の方は、食べ方の順序などから本人の性格を次々に言い当てていきました。無知な方は、これを見て「心理学ってすげぇ!」と思ったでしょうね。でも残念ながら、これは相当に怪しい話です。もちろん、この専門家はバックデータとしてある種の実験結果を踏まえているのでしょうが、残念ながらその実験では「カレーの食べ方と性格の関係」については、何も語っていないはずです。それで無理やりのこじつけをやったんでしょうね。これでは、「地震の少ない年は台風が多い」などの迷信とそんなに変わりません。

これが困るんです。まともな心理学者やカウンセラーなど心理職の人は、本当に迷惑していると思います。「私の考え」として言うならともかく、「心理学ではこうなっています」というのですから。すぐにばれるうそをついて、それを心理学のせいにされたのではたまりませんよね。よく考えて欲しいと思います。まあ、どうせ一過性のブームですからそのうち誰も相手にしなくなると思いますけど。心理学や脳科学だけでなく精神科医療の世界も含め、「心」の問題というのは俗説がはびこりやすいですね。ある精神科の医師も、「大御所の大先生が、思いつきの俗説で本をかかれるので、ほんとうに困っています。」といっていました。さもありなん、と思える話です。

話がだいぶ逸れました。それで、心理学の良い点ですが、脳科学が通常の科学と同じように原因やメカニズムを深く探求していくのに対して、心理学はひたすら結果(というか現象そのもの)を追いかけます。こんな事実が観察されたのだから、心にはこんな法則があるのだろう、という研究の進め方を選択します。帰納法的な点で漢方医学に似てるといえば似ていますね。だから、メカニズムはわからなくても、状況さえ把握できれば何らかの結論を出せるのです。人間の心(あるいは脳)という、メカニズムの解明にまだまだ長い時間を要する領域に適用する方法論としては心理学の方が適しているようです。

しかしそうはいっても、脳科学的な手法を用いなければ解明できない部分もあり、一概にどちらがすぐれているとか、どちらがダメで、どちらがOKという言い方もできないと思います。和田さんの意図は、脳科学を過信せず、必要に応じて心理学で補ったり、心理学が優位の分野では積極的に心理学を活用しましょう、ということのようです。

教育の世界で例えると、脳科学は研修などのOff-JT、心理学は職場で推進されるOJTといったところでしょうか。研修ではまず、既に確認されている知識とその使い方を理論を交えて体系的に教えます。簡単な演習を行ったあと、「実際に活用できるようになるためには、実務で反復練習しましょう。」という形で終わります。ポイントはメカニズムを知識として与えることです。それに対してOJTでは、どちらかといえば「理屈はともかく、こうやれば結果はこうなる。」「経験を通じて体で覚えろ。」という形をとることが多いと思います。メカニズムを無視するわけではありませんが、それはそれとしていったん横におき、結果を導き出すための法則の体得を重視するわけです。

ここでも、どちらが大事だということは言いがたいと思います。最近の傾向として、研修でも体験学習が重んじられてきています。体験(現実には疑似体験)の仕掛けを用意しなければなりませんので、従来型の知識学習に比べ、知識伝達に避ける時間数は激減します。しかし、体験することで得られる「気づき」が持っている情報量は膨大であるため、あえて体験型の学習が選ばれるのだと思います。
(このような研修では知識学習は事前に配布した文献を読ませることで補うことが多いようです。しかし、これはこれで問題もあるのですが・・・。)

アプローチの異なる複数のツールを保有すると、仕事の幅は広がります。道具箱の中の道具は多い方がいいですね。ただし、使いこなせるのであれば・・・、の話ですが。

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2011年10月10日 (月)

大学病院は良い病院か?

身近な開業医より大学病院の方がより良い医療サービスを受けられる、と思っていませんか?

私も以前はなんとなくそんな気がしていました。でも、これって本当でしょうか。もちろんそう思うからこそ、多くの人がただの風邪で大学病院の内科を訪れ、水虫で大学病院の皮膚科を受診したりするのでしょう。以前このブログで紹介した野田一成さんの本(「医者の言い分」(中経出版))には、内情を知る医師の立場から「患者のこの心理は不思議だ。」と書かれています。

冷静に考えてみれば、早朝から大混雑の大学病院の外来で昼過ぎまで待つより、近所の内科で診てもらった方が楽です。また、診察時間も余裕のある開業医の方が、世間話などしながら丁寧に診てくれるでしょう。さらに、大学病院には去年まで研修医だった新米の医師が多く、この道何十年のベテラン開業医と同レベルの診察は望めないでしょう。しかも、結果として同じ薬を処方してもらうのであれば、どう考えても大学病院は損です。

以前、静岡県西部の某市役所のコンサルティングを行っていた際に、市民病院の事務部長さんから、「なぜか市民はうち(市民病院)より、浜松医大病院の方がいいと思っているんだよね。」という話を聞きました。実は、市民病院の先生のほとんどが浜松医大から派遣されているので、結局は同じ先生に診てもらうことになるのですが、それでも「医大の方が設備が整っているから良い」という大学病院信仰があるようなのです。

子供のころ見たTVドラマで、金持ちの息子が大怪我をして小さな病院で応急手術を受けた翌日、両親が言いにくそうな表情で担当医師に向かって、「設備の整った大学病院に移したいのですが・・・」と切り出したところ、その医師は「患者に必要なのは良い設備ではありません。必要なのは良い医師です。大学病院だったら、息子さんの足は切断されていたでしょう。」ときっぱりと告げており、子供ながらとてもかっこいいと思った記憶があります。

余談ですが、この患者の側からの損得の話よりも深刻なのは、このような患者側の勘違いが大学病院に無用の負担をかけ、本当に高度な医療を必要としている重病患者に割ける診察時間がどんどん失われていることの方です。救急車をタクシー代わりに使う人が増えているそうですが、なんとなく通じる話ですね。

さてさて、講師業ではどうでしょうか。

セミナー講師を頼むには、有名なコンサルティングファームに依頼することもできますが、小規模な教育会社や私のような個人コンサルタントに依頼することもできます。皆さんだったらどちらを選びますか?

大規模ファームも個人コンサルタントも、双方に利害得失があり一概にどちらが良いとはいえませんが、意外かもしれませんが、世界的な大企業であっても、私のような個人コンサルタントを重用してくださる企業が結構多いのです。結局のところセミナー講師やコンサルタントはサービス業ですので、「どこに頼むか」より「誰が担当してくれるのか」の方が重要であり、すぐれた発注者はそのことを十分に理解されているのです。

ところで医療の世界では、「設備が整っているから」という理由で大学病院が選ばれますが、講師やコンサルタントの世界では、「高度なノウハウや豊富な情報を保有するから」という理由で大規模ファームが選ばれることがあります。しかし、このような期待は多くの場合、あっさりと裏切られることが多いのです。

私も大規模ファームに所属したことがあるから分かりますが、ノウハウなるものの多くは「お飾り」であることが多いのです。宣伝用パンフレットをきれいに飾ってはくれますが、実務で役立つことはほとんどありません。というより、ノウハウとして定式化できるような知識は、ベテランコンサルタントであれば常識として身につけているものがほとんどで、強いて言えば経験の浅いコンサルタントに大きな失敗をさせないための子供用自転車の補助輪のようなものです。これの有無で仕事の質が変わることはまずありません。

「大規模ファームは豊富な情報をもっている」という話も同様で、確かに世界規模でサービスを提供しているファームでは、イントラネットで「○○に関する実績はないか?」と問いかければ、地球の裏側から「こんなのがありますよ」と資料を送ってくれることがあります。しかし、現実には参考資料以上の価値はないのです。考えてみれば当然ですが、自分がサービスを提供するクライアントはそれぞれ固有かつ厄介な課題を抱えており、それに対してどのようなソリューションを提供するかということが問われているのであり、事情の異なる実績情報がそのまま役立つことはないといって良いでしょう。

以上はどちらかというとコンサルティング業務よりの話ですが、講師業務の場合はさらにこの傾向が強くなります。所詮講義の技術は噺家の話芸のような部分が多く、それは一身専属のものです。一流のファームに所属しているというのは、芸人でいえば吉本興業に所属しているというようなことで、肝心なのは誰が芸をやってくれるのか、ということであるのと似ています。

大規模ファームに依頼すると、そのとき手が空いている人(暇な人)に仕事が回ることが多く、ハズレくじをひかされることも多いことをご存知のベテラン人事担当者の方などは、確実にお目当ての講師に来てもらえる小規模ファームの方が安心できることを評価してくださっているのでしょう。

誤解のないように、大規模ファームはダメだということが言いたいのではありませんよ。それぞれに利害得失があり、一概に大規模だから良いというものではないですよね、ということが言いたいのです。大規模ファームの良いところは、有名なので探す手間が省けることや、社内稟議が楽に通ることです。さらに、結果が良くなかった場合でも、「世界的に有名な○○社に依頼したけどダメでした。」という言い訳が通り易いことも魅力です。
(すみません、少し冗談が過ぎました。)

いずれにしても、サービス業は「人」だ、ということなのですね。

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2011年10月 3日 (月)

批判が怖い

お医者さんの書いた本の話の続きです。

最近読んだもう一冊は、産業医であり精神科医の斉尾武郎さんが書かれた「精神科医 隠された真実(東洋経済新報社)」です。この本では産業医の立場から、担当する会社の社員が通院している精神科医の処方(薬の出し方)を評価しています。

「なぜこんな非常識がまかり通るのか」という憤りをこめたエピソードが多数語られています。内科医であれば絶対にありえない矛盾やムダだらけの処方が多すぎるとのことです。副作用を恐れて効能が発揮できないほど少量の処方を行ったり、互いに正反対の効能を持つ薬を同時に出したりといったことが多く、また考えられないほどの多剤処方(多くの種類の薬を一度にのませること)が多すぎるのだそうです。

その理由のひとつとして、他者(同業の先輩など)の目が届かないところで仕事が完結していることをあげられています。

内科医であれば、研修医時代に勤務した大学病院や大規模病院で処方の基本を習った後で開業します。内科の世界では検査や診察の確かな技法があり、処方にも標準が確立していますので、我流やでたらめは起こりにくいといいます。たとえば、足の親指が痛いという患者さんであれば、血液検査を行って尿酸値が8.0以上であれば高尿酸血症であり、痛みは痛風発作であろうと診断できます。とりあえず鎮痛剤を数日分出し、痛みが落ち着いたあと、症状に応じて尿酸の排泄を促す薬を所定の量だけ処方して経過を見るということになると思います。

ところが精神科医の場合にはもともと処方に標準が確立していないようです。人間の脳の機能や生理が十分に解明されておらず、脳の複雑な働きの不具合を診断する方法論もありません。たとえば、うつ病の原因は脳内神経伝達物質セロトニンの再吸収による枯渇だといわれており、抗うつ薬としてセロトニンのレセプタをブロックする薬が使用されます。しかし、このメカニズム自体がいまだに仮説の域を出ず、セロトニン濃度の回復とうつ病の症状の緩和が連動しないという矛盾も指摘されています。そこでDSM-Ⅳ(米国精神医学会のチェックリスト)などを用いた操作的診断という手法が用いられるわけですが、これは内科のように原因を特定しての診断ではなく、症状を観察して病名を決めるという危ういものです。現代医学というより漢方に近いと思います。「見立て」に自信が持てないので、あれもこれもとたくさんの薬を処方するのだと思います。

さらに精神科の特徴として、研修医時代の大病院で診察する患者と、開業後にやってくる患者とでは、症状が全く異なることも指摘されています。鉄格子の病室が並ぶ大学病院や郊外にある大規模な精神病院には、ちょっと気分がすぐれないという程度の患者は近寄りがたく、慢性化したうつ病患者や重い統合失調症などの入院患者の診察が中心となります。結果として、研修医時代には現代病の典型である初期症状のうつ病を診察する経験はほとんどもてず、誰からも技術を学ぶことはできないのです。ところが都心に開業した「○○こころのクリニック」などの場合には、会社帰りのサラリーマンが「うつ病ではないでしょうか?」と相談に訪れます。つまり、研修医時代にほとんど経験しなかった病気を、開業後に初めて、しかも大量に扱うことになり、我流の処方にならざるを得ません。

そんな具合ですから、自分の診断と処方に自信が持てないので、過剰なまでに批判を恐れることになります。産業医から「処方がおかしいのでは?」という照会を受けると、ムキになって「俺の処方に文句があるのか!」と逆切れする精神科医も多いそうです。医師会などでは症例の研究会などが行われるそうですが、自分の事例を開示する勇気がないために出席もままなりません。結局、誤った我流を押し通すことになるとのことです。

斉尾氏によれば、まともな処方ができる精神科医は全体の3~5割ではないかとのことです。この数字はあくまでも斉尾氏の経験則ですので、確かなものではありませんが、精神科医療の抱える大きな課題が感じ取れます。

この話も、読んでいてわが身の問題として切実な印象を受けました。

大手教育会社に勤務する場合は多少事情が異なりますが、現在の私のように独立開業しているセミナー講師の世界は、いってみれば蛸壺社会です。他の講師の講義を見て新たなスキルを学んだり、自分の講義を他の講師に見てもらって批判をいただく機会が恐ろしく少ないのです。その大きな理由としては、私は各講師の秘密主義だと考えています。セミナー講師は同業者に自分の講義を見られるのをひどく嫌います。

その最大の理由は、「ノウハウを盗まれる」と思うことです。

まったくおろかな発想だと思います。盗むほどの価値のあるノウハウを持つ講師など、数えるほどしかいないでしょうし、盗んだとしても講義のスキルなどそのまま使えるものではありません。しかも、当人が自分のノウハウだと思っているものも、実は誰かのノウハウの加工品に過ぎないことがほとんどです。そもそも、ノウハウを盗まれたからといって、自分のビジネスに影響など出ないはずです。教育のマーケットは自分の稼ぎよりもはるかに広大ですから。

一方、盗む価値のあるノウハウを持った講師の講義は、さまざまな形で公開されており、本人も隠す意志を持たないことが多いのです。隠す講師は、実は自分の講義に自信がないのでしょうね。

「だったら問題ないのでは?」と感じるかもしれませんが、そうではないのです。我々講師のスキルはスポーツ選手のそれと似ており、他人のやり方をそのまま流用することは無理なのですが、他人のやり方(スポーツでいえばフォーム)を観察し、自分の講義を改善していくことは重要なのです。また、スポーツ選手がコーチに指導を受けるように、先輩講師から手直しの指導を受けることも重要です。その機会をお互いが「隠す」ことでつぶしてしまっているのです。おろかですよね。

とはいえ、隠す方の肩を持つべき事情もあるにはあります。自分の知的所有権を主張する割には、他人の知的所有権を尊重しない人も少なくないのです。もともと講師の使用する教材などは、市販文献などの公開情報を元に作成してるものが多いので、大部分は自己の知的財産とはいいがたいのですが、その配列方法や教え方にはそれなりの工夫があります。それをこっそり拝借して平然としている不心得な講師もいます。特許をとっているわけではないですが、やはりきちんと仁義を切る(許諾を受ける)のがマナーでしょう。

いまひとつの理由は、「自信がない」ということでしょうね。

なにしろ我流でやっちゃってますので、講義や演習指導など、基本的なスキルに自信がない人も多いと思います。また、自分の専門分野の知識についても、ものの本で読んだ知識だけでは実務講座で教えるには不十分ですので、自分なりの解釈を行って伝えますが、実務経験を通じて形成されたものであればそれなりに自信は持てますが、頭の中だけで勝手に構築した知識体系にすぎないものは、他人の目には「おかしい」「納得できない」と映る恐れが大です。そのような批判を恐れて「隠す」という方向に走る人も多いと思います。このような人に限って、少しでも批判的なコメントを受けると、「何が悪いんだ!」とばかりに逆切れすることも多いように思います。

と、まあこんな感じですが、「では、お前はどうなんだ?」といわれそうですが、私は自分の講義を同業者に見せることには全く抵抗ありません。もちろん「お粗末さまですが」というエクスキューズ付きですし、「批判は承ります」がポリシーです。

できれば他の講師の講義も拝見したいのですが、その機会は少ないですね。しかし、中には非常に好意的な方もおられ、ノウハウをどんどん公開してくださいます。このような方の講義を拝見した際には、深く感謝することは当然ですが、それを無断で活用することのないよう細心の注意を払います。また、批判的なコメントなどは求められるまでは慎みます。

結局、技術の世界では、お互いがオープンになった方が、密室でいるよりお互いの成長につながるんだと思います。

オープンであること。大事ですね。

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