2020年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月

2011年10月31日 (月)

日ごろ使わない筋肉

むかしむかしの学生時代、私はボート部に所属しており、日々、それはそれは過酷なトレーニングを行っていました。実際に川にボートを浮かべて何十キロもこぎ続けるだけでなく、陸トレといってバーベルを持ち上げる筋トレもたっぷりやっていました。おかげで、あちこちに筋肉がつき、体全体がごつごつの不格好な姿になってしまいました。それと同時に、これだけ鍛えているのだから、どんな肉体労働も平気だぜ、と思っていました。

ところが、某引越し会社のアルバイトをした翌日、体のあちこちの筋肉が痛くて歩くのもままならなかったことがあります。「なんで?」と思いました。引越しよりきつい筋トレをやってたはずなのに・・・。

後になって、引っ越し作業ではボートを漕ぐときには使わない筋肉を酷使ししており、それが筋肉痛を起こしたんだということに気づきました。よくいう「いつも使わない筋肉を使う」ということですね。スポーツのトレーニングというのは、競技に必要な限られた筋肉を最小限の努力で鍛えられるように組み立てられており、必ずしも日常生活で必要な筋肉のすべてを網羅しているわけではないのだと教えられました。そういえば、瀬戸内で漁師をやっていた叔父は、子供のころから過酷な船上作業で鍛えられており、その後、どんな仕事をしても筋肉痛などを訴えた様子は見たことがありません。やはり実務で鍛えられた体は強いんですね。

この話は筋肉だけに限らないと思います。

講師業をやっていると、自分の専門領域の知識はやたらとたくさん、かつ深く身に付きますが、その知識だけでビジネスの実務ができるかというとそうはいかないのです。たとえば、人事制度を構築したり、評価者研修の指導を行っていると、「人事制度はどうあるべきか」とか「評価のスキルの重要ポイント」などはかなり高度なレベルで語れるようになります。しかし、「それなら当社にきて、人事課長に就任してください」といわれて務まるかといえば、まず無理でしょう。人事課長は人事制度の運用だけを行っているわけではないからです。

人事課長の仕事には、給与計算(税務、社会保険事務を含む)や労働衛生管理(健康診断や産業医とのやり取りを含む)、採用や退職の事務手続き、そして社内で日々発生する様々な人事トラブルや苦情処理など、人事管理のテキストには出てこない膨大な仕事が待っています。講師の持つ知識だけでは到底処理しきれません。

だから、講師は身の程を知らなければならないと思います。自分は特定の知識領域のスペシャリストではあっても、受講者(実務を支えている人たち)にとって代われるものではないということをしっかりと肝に銘じておく必要があります。そう思って、謙虚な気持ちで教壇に立つ必要があるのです。

と同時に、これらの実務知識についても、可能な限り情報収集を行い、少なくとも知識レベルでは理解しておく努力は必要です。普段は使わない筋肉を鍛えておく、ということです。

実務の中で「内部統制制度の整備を進める」といった場合、根拠法令や内部統制の技術的な知識が必要なことはもちろんですが、それだけでは足りません。マネジメントの現場で交わされるやり取りの特性や、よくある失敗例やそれに対する関係者の反応などを理解しておくことで、活きた内部統制制度の構築指導ができます。理屈を延々と語るのではなく、「○○の現場では、よくこんなことが起きますよね。」といった話ができれば、受講者は学習中の知識と自分の仕事を結び付けやすくなり、より深く確実な学習が期待できます。

にもかかわらず、内部統制を語る講師・コンサルタントの中には、実務を知らないばかりか、講師に求められる周辺知識であるはずの法令やITの知識すらない人も結構いたりします。こんな講師に習ったのでは、内部統制「論」の勉強にはなっても、業務改革の実現は難しいでしょう。

なぜこんな残念なことになるのかといえば、専門家であることに安住してしまっている講師が多いのではないかと思います。「私は○○の専門家ですから」といえば、他のことは全く知らなくても許されると思っているのではないでしょうか。これは大いなる勘違いですね。

我々実務教育の講師は大学の先生とは違います。お客様が我々を招いて講義を聞くのは、学問をしたいからではなく、特定の経営課題に答を出したいからです。だとすれば、その課題に取り組むために必要な知識などは、可能な限りオールインワンで提供すべきものでしょう。それがビジネスというものです。その発想がないから、「○○の専門家」という枠から出られないのだと思います。これは一種の不勉強なのだと思います。

周辺知識を身につけることは、仕事の深みだけでなく幅を広げることにもつながります。「周辺」の範囲にとどまらず、雑食を心掛ければさらによいでしょう。マネジメントの話をしながら法律や財務・計数の話を同時にできれば、内容が立体的になり、他では聞けない講義を実現できます。すでに述べたように、世の中には「○○の専門家」の枠から出ることができない講師が大勢いるわけですから、差別化戦略としてもきわめて有効です。しかも、講師の専門分野にもはやりすたりが存在します。自分の専門分野の1つがすたれても、他の分野で稼げるように専門性のポートフォリオ管理ができるようにもなります。

「芸は身を助く」という言葉は良い意味ではなく、趣味で磨いた芸で生活しなければならないような追い込まれた境遇をはかなんだ言葉だそうですが、いいじゃないですか。たくさんの芸を持てば、人生の選択肢も広がりますから。

ただし、器用貧乏にだけはならないように。くれぐれも。

すみぶち塾Sumizuku

2011年10月24日 (月)

外科と内科、どっちが偉い?

このところ、このブログではお医者さんの話が続いています。今回で一段落としましょう。

長年、いろんな職場を訪問し、さまざまな職種の方とお話していると、専門家の間では、いわゆる近親憎悪が結構多いようですね。公認会計士は税理士と仲が悪いし、SEはコンサルタントと仲が悪い。陸軍は海軍と仲が悪いし、保健所は福祉事務所と仲が悪い。営業課長は宣伝課長と仲が悪いし、社長は専務と仲が悪い。最後のは冗談です!

長い間、お互いに縄張り争いとか責任のなすりあいとかやってるうちに、だんだんと「顔を見るのもイヤ!」という感じになるのでしょうね。それとは別に、そもそも「どっちが上か」という意味でのいがみ合いもありますね。

ずいぶん前の話ですが、医者の世界では、人間の体を総合的に診察することができる内科医が一番えらい、という話を聞いた事があります。もっとも最近では、内科も循環器内科、消化器内科、神経内科など、さまざまな「分派」に分かれており、「総合的」という看板にはやや疑問が残るのですが。

それに対して外科医の先生方も負けてはいないようです。ある大学病院の外科の先生は、「内科は診たてたあとは患者に薬を飲ませ、治ることを天に祈るだけだ。それに対して外科医は執刀ができる。患部を摘出したり、傷口を縫合して血をとめることだってできる。つまり患者を治せるのは外科医だけなのだ。」と豪語されたようです。失礼ながら言わせていただければ、縫った傷口が元に戻るかどうかは、外科医とてやはり天に祈るしかないと思うのですが。

まあ、細かい話はともかく、それぞれに言い分はあるということです。どうか仲良くやっていただきたいものです。

我々の世界にも似た話がありまして、コンサルタントとセミナー講師はどっちが偉いか、というものです。土地勘のない方には「何の話だ?」という感じだと思いますので、少々解説を。

企業が経営改善を実行する際、自力では無理だと判断された場合にコンサルタントを雇うことがあります。コンサルタントに依頼して改善を進めることを、「コンサルティングを受ける」といいますね。彼らに現状分析をしてもらい、「あるべき姿」を描いたうえで、さまざまな制度を構築したり、情報システムを導入したり、業務手続きの改善を行っていきます。これが一般にイメージされるコンサルティングという仕事だと思います。

ところがこれとは異なるアプローチのコンサルティングもあります。上のケースでは社内の制度や業務プロセスなどに課題を抱えるクライアントを想定していますが、クライアントの抱える課題はそれだけではありません。「問題意識が低い」「組織間のコミュニケーションが希薄だ」といった社員の意識や能力が原因でやっかいな問題を引き起こしているケースもあります。このようなケースでは、制度や手続きをいじっても問題は解決しないことが多いのです。このようなケースでは、教育型のアプローチが採用されます。部長、課長、係長などの経営階層ごとに、彼らに求められる能力や大切にしてもらいたい価値観などを教育していき、「できる」という自信や、「やらねば」という意識を植え付けていくのです。

前者をハードアプローチ、後者をソフトアプローチと呼ぶこともあります。前者を専門とするのがコンサルタント、後者の専門家はセミナー講師ということになります。

たとえば、「これまで、社員のやる気をそぐマネジメントが行われてきて、士気が極度に低下してしている」という事実に経営者が気づいた場合、ハードアプローチでは「評価制度の再構築」「賃金体系の見直し」「業務機能の再配分による業務負荷の平準化」など、問題があると思われる制度や仕事そのものをいじっていきます。

それに対してソフトアプローチでは、上司と部下のコミュニケーションの質を改善するための傾聴・自己表現スキルの向上や、職制を通じて経営課題の展開を可能にし、各自に期待される役割を深く理解し、お互いの役割を相互に認識できる環境を作り、風通しの良い職場を実現して行くような取り組みを行います。この場合に活用されるのが研修(セミナー)です。セミナーといっても、単なる知識伝達ではなく、現実の職場の課題を取り上げて、その解決方法を議論したり、上手なコミュニケーションのあり方を擬似体験したりといった多様な技法が駆使され、受講者自らが問題解決策に気づくことを重視します。

このように、大別して2通りのアプローチがあるのですが、しいて言えばソフトアプローチは内科、ハードアプローチは外科と言えるでしょうか。もうお分かりでしょうが、コンサルタントとセミナー講師の間で、冒頭に紹介した内科と外科の言い争いのような喧々諤々の論争があるのです。

医療のためには内科医も外科医も必要で、患者は各診療科がそれぞれの役割をきちんと果たしてくれることを期待します。悪性の腫瘍があれば早期に摘出手術が必要で、薬を飲んで気長にかまえている場合ではありません。しかし、なんでも切ってしまえば解決するわけではなく、心身症などの場合には投薬と心理療法などを効果的に組み合わせて治癒を目指すと思います。

経営改善でも同じです。評価への不満を解決する際に、役割基準が不明確で評価尺度も定められていない組織であれば、まずしっかりした仕組みを整備すべきです。この状態で意識改革など期待できるものではありません。しかし、仕組みを作ってそこに人を追い込めば組織は動くというのは暴論です。あるいは楽観的すぎます。その仕組みの意図を正しく理解させ納得させた上で、適切に運用するスキルを組織に注入する必要があります。ハードとソフト、どちらが重要だというものではないのです。

私は若いころ、コンサルタントにあこがれてこの世界に入りました。そして企業の制度や組織をいじって、いかにも「コンサルタントでございます」というつもりでおりました。そしてセミナー講師のことを「あいつらは、しゃべるだけで何も変えられない」「経営改善(経営改革)ができるのは我々コンサルタントなのだ」と身の程知らずにも豪語しておりました。

しかし今は理解できます。コンサルタントもセミナー講師もどちらもなければ経営改善(経営改革)の成功はあり得ないことを。

視野を少し広げるにも、それなりに時間がかかるものですね。

すみぶち塾Sumizuku

2011年10月17日 (月)

ハードウェアか、ソフトウェアか

最近少し落ち着いてきましたが、「脳科学」がもてはやされていますね。「脳トレ」など、皆さんははまりましたか?

私は流行に疎いので、茂木健一郎先生の本を何冊か読んだくらいで、脳科学に「はまった」ということはなかったと思います。しかしブームというのは最後はさびしいものですね。今年になって、「脳科学はダメだ」という趣旨の話がよくきかれるようになりました。

生き方や勉強法など、膨大な著書を書かれている精神科医の和田秀樹さんも、ことしの春、「脳科学より心理学(ディスカヴァー携書)」という本で、「そろそろ脳科学はよして、心理学を見直しましょう」と言っています。でも、心理学もずいぶん前に大ブームになりましたので、それをまた蒸し返すというのも「どうなの?」という気がしますが、まあそれはそれとして、和田さんの主張を聞いてみますと、こんな感じです。

脳科学というのはいわば脳のハードウェアの研究を進める学問です。たとえばうつ病の原因は脳内神経伝達物質のセロトニンの再吸収が過剰になって、思考や意欲が沈滞するのが原因であり、セロトニンを吸収する受容体(レセプタ)をブロックすればうつ症状は緩和するのではないか、といった研究成果も脳科学(より正確には神経科学)が突き止めたものです。したがって、脳科学に意味がないとか、脳科学がうそだということではないのですが、あまりにも世間の期待と現実の脳科学の研究成果が乖離してしまっており、「脳科学さえあれば、人間のことは何でもわかる」というような誤解がはびこってしまっているのは困る、というような話です。ブームだから、ある程度仕方ない話かもしれませんが。何しろ脳科学では生きた人間の脳を用いた実験が難しいため、仮説ベースの研究成果が多いことも「脳科学に期待しすぎるな」という主張の背景にはあるようです。ねずみやプラナリアの神経をすりつぶしたら、こうなっていましたから人間も似たようなものでは、というような話でしょうか。つまり、現在の脳科学には大きな限界があるということです。

それに対して心理学はどうでしょう。こちらは心、つまり脳のソフトウェアを扱います。ところで、心理学というと、みなさんは「他人の心を透視できる学問」だと思っていませんか? 実はこれ、正統派の心理学者がもっとも困惑するところです。心理学はそんな便利な学問ではありません。むしろ「人の心はわからない」という前提に立った学問だ、といった方がより正確だと思います。「わからないからこそ、行動を観察し、心を推測するのだ」という立場です。したがって、心理学の研究では何よりも実験(テスト)が重視されます。心理学の論文を書くには統計学の知識は不可欠といってよいでしょう。たとえば、「このような条件を設定して、このような作業をやってもらったところ、こんなミスが通常より○%減少した。」というような事実を押さえ、「だから人間の心にはこんな性質があると考えられる。」という結論を導き出すのです。結構、時間と手間のかかる学問ですし、バイオやITのように、企業が巨額の研究費を出してくれることも少ない領域ですので、華々しい成果が次々と生まれてくることは期待薄です。

そんなわけで心理学を面白い話に結びつけるのは本来難しいのです。にもかかわらず、最近、似非心理学者がはびこっていますね。先日、某TV局の番組で、「カレーライスの食べ方からその人の性格を当てる」というのをやっていました。出演されていた「心理学の専門家」の方は、食べ方の順序などから本人の性格を次々に言い当てていきました。無知な方は、これを見て「心理学ってすげぇ!」と思ったでしょうね。でも残念ながら、これは相当に怪しい話です。もちろん、この専門家はバックデータとしてある種の実験結果を踏まえているのでしょうが、残念ながらその実験では「カレーの食べ方と性格の関係」については、何も語っていないはずです。それで無理やりのこじつけをやったんでしょうね。これでは、「地震の少ない年は台風が多い」などの迷信とそんなに変わりません。

これが困るんです。まともな心理学者やカウンセラーなど心理職の人は、本当に迷惑していると思います。「私の考え」として言うならともかく、「心理学ではこうなっています」というのですから。すぐにばれるうそをついて、それを心理学のせいにされたのではたまりませんよね。よく考えて欲しいと思います。まあ、どうせ一過性のブームですからそのうち誰も相手にしなくなると思いますけど。心理学や脳科学だけでなく精神科医療の世界も含め、「心」の問題というのは俗説がはびこりやすいですね。ある精神科の医師も、「大御所の大先生が、思いつきの俗説で本をかかれるので、ほんとうに困っています。」といっていました。さもありなん、と思える話です。

話がだいぶ逸れました。それで、心理学の良い点ですが、脳科学が通常の科学と同じように原因やメカニズムを深く探求していくのに対して、心理学はひたすら結果(というか現象そのもの)を追いかけます。こんな事実が観察されたのだから、心にはこんな法則があるのだろう、という研究の進め方を選択します。帰納法的な点で漢方医学に似てるといえば似ていますね。だから、メカニズムはわからなくても、状況さえ把握できれば何らかの結論を出せるのです。人間の心(あるいは脳)という、メカニズムの解明にまだまだ長い時間を要する領域に適用する方法論としては心理学の方が適しているようです。

しかしそうはいっても、脳科学的な手法を用いなければ解明できない部分もあり、一概にどちらがすぐれているとか、どちらがダメで、どちらがOKという言い方もできないと思います。和田さんの意図は、脳科学を過信せず、必要に応じて心理学で補ったり、心理学が優位の分野では積極的に心理学を活用しましょう、ということのようです。

教育の世界で例えると、脳科学は研修などのOff-JT、心理学は職場で推進されるOJTといったところでしょうか。研修ではまず、既に確認されている知識とその使い方を理論を交えて体系的に教えます。簡単な演習を行ったあと、「実際に活用できるようになるためには、実務で反復練習しましょう。」という形で終わります。ポイントはメカニズムを知識として与えることです。それに対してOJTでは、どちらかといえば「理屈はともかく、こうやれば結果はこうなる。」「経験を通じて体で覚えろ。」という形をとることが多いと思います。メカニズムを無視するわけではありませんが、それはそれとしていったん横におき、結果を導き出すための法則の体得を重視するわけです。

ここでも、どちらが大事だということは言いがたいと思います。最近の傾向として、研修でも体験学習が重んじられてきています。体験(現実には疑似体験)の仕掛けを用意しなければなりませんので、従来型の知識学習に比べ、知識伝達に避ける時間数は激減します。しかし、体験することで得られる「気づき」が持っている情報量は膨大であるため、あえて体験型の学習が選ばれるのだと思います。
(このような研修では知識学習は事前に配布した文献を読ませることで補うことが多いようです。しかし、これはこれで問題もあるのですが・・・。)

アプローチの異なる複数のツールを保有すると、仕事の幅は広がります。道具箱の中の道具は多い方がいいですね。ただし、使いこなせるのであれば・・・、の話ですが。

すみぶち塾Sumizuku_3

2011年10月10日 (月)

大学病院は良い病院か?

身近な開業医より大学病院の方がより良い医療サービスを受けられる、と思っていませんか?

私も以前はなんとなくそんな気がしていました。でも、これって本当でしょうか。もちろんそう思うからこそ、多くの人がただの風邪で大学病院の内科を訪れ、水虫で大学病院の皮膚科を受診したりするのでしょう。以前このブログで紹介した野田一成さんの本(「医者の言い分」(中経出版))には、内情を知る医師の立場から「患者のこの心理は不思議だ。」と書かれています。

冷静に考えてみれば、早朝から大混雑の大学病院の外来で昼過ぎまで待つより、近所の内科で診てもらった方が楽です。また、診察時間も余裕のある開業医の方が、世間話などしながら丁寧に診てくれるでしょう。さらに、大学病院には去年まで研修医だった新米の医師が多く、この道何十年のベテラン開業医と同レベルの診察は望めないでしょう。しかも、結果として同じ薬を処方してもらうのであれば、どう考えても大学病院は損です。

以前、静岡県西部の某市役所のコンサルティングを行っていた際に、市民病院の事務部長さんから、「なぜか市民はうち(市民病院)より、浜松医大病院の方がいいと思っているんだよね。」という話を聞きました。実は、市民病院の先生のほとんどが浜松医大から派遣されているので、結局は同じ先生に診てもらうことになるのですが、それでも「医大の方が設備が整っているから良い」という大学病院信仰があるようなのです。

子供のころ見たTVドラマで、金持ちの息子が大怪我をして小さな病院で応急手術を受けた翌日、両親が言いにくそうな表情で担当医師に向かって、「設備の整った大学病院に移したいのですが・・・」と切り出したところ、その医師は「患者に必要なのは良い設備ではありません。必要なのは良い医師です。大学病院だったら、息子さんの足は切断されていたでしょう。」ときっぱりと告げており、子供ながらとてもかっこいいと思った記憶があります。

余談ですが、この患者の側からの損得の話よりも深刻なのは、このような患者側の勘違いが大学病院に無用の負担をかけ、本当に高度な医療を必要としている重病患者に割ける診察時間がどんどん失われていることの方です。救急車をタクシー代わりに使う人が増えているそうですが、なんとなく通じる話ですね。

さてさて、講師業ではどうでしょうか。

セミナー講師を頼むには、有名なコンサルティングファームに依頼することもできますが、小規模な教育会社や私のような個人コンサルタントに依頼することもできます。皆さんだったらどちらを選びますか?

大規模ファームも個人コンサルタントも、双方に利害得失があり一概にどちらが良いとはいえませんが、意外かもしれませんが、世界的な大企業であっても、私のような個人コンサルタントを重用してくださる企業が結構多いのです。結局のところセミナー講師やコンサルタントはサービス業ですので、「どこに頼むか」より「誰が担当してくれるのか」の方が重要であり、すぐれた発注者はそのことを十分に理解されているのです。

ところで医療の世界では、「設備が整っているから」という理由で大学病院が選ばれますが、講師やコンサルタントの世界では、「高度なノウハウや豊富な情報を保有するから」という理由で大規模ファームが選ばれることがあります。しかし、このような期待は多くの場合、あっさりと裏切られることが多いのです。

私も大規模ファームに所属したことがあるから分かりますが、ノウハウなるものの多くは「お飾り」であることが多いのです。宣伝用パンフレットをきれいに飾ってはくれますが、実務で役立つことはほとんどありません。というより、ノウハウとして定式化できるような知識は、ベテランコンサルタントであれば常識として身につけているものがほとんどで、強いて言えば経験の浅いコンサルタントに大きな失敗をさせないための子供用自転車の補助輪のようなものです。これの有無で仕事の質が変わることはまずありません。

「大規模ファームは豊富な情報をもっている」という話も同様で、確かに世界規模でサービスを提供しているファームでは、イントラネットで「○○に関する実績はないか?」と問いかければ、地球の裏側から「こんなのがありますよ」と資料を送ってくれることがあります。しかし、現実には参考資料以上の価値はないのです。考えてみれば当然ですが、自分がサービスを提供するクライアントはそれぞれ固有かつ厄介な課題を抱えており、それに対してどのようなソリューションを提供するかということが問われているのであり、事情の異なる実績情報がそのまま役立つことはないといって良いでしょう。

以上はどちらかというとコンサルティング業務よりの話ですが、講師業務の場合はさらにこの傾向が強くなります。所詮講義の技術は噺家の話芸のような部分が多く、それは一身専属のものです。一流のファームに所属しているというのは、芸人でいえば吉本興業に所属しているというようなことで、肝心なのは誰が芸をやってくれるのか、ということであるのと似ています。

大規模ファームに依頼すると、そのとき手が空いている人(暇な人)に仕事が回ることが多く、ハズレくじをひかされることも多いことをご存知のベテラン人事担当者の方などは、確実にお目当ての講師に来てもらえる小規模ファームの方が安心できることを評価してくださっているのでしょう。

誤解のないように、大規模ファームはダメだということが言いたいのではありませんよ。それぞれに利害得失があり、一概に大規模だから良いというものではないですよね、ということが言いたいのです。大規模ファームの良いところは、有名なので探す手間が省けることや、社内稟議が楽に通ることです。さらに、結果が良くなかった場合でも、「世界的に有名な○○社に依頼したけどダメでした。」という言い訳が通り易いことも魅力です。
(すみません、少し冗談が過ぎました。)

いずれにしても、サービス業は「人」だ、ということなのですね。

すみぶち塾Sumizuku_2


2011年10月 3日 (月)

批判が怖い

お医者さんの書いた本の話の続きです。

最近読んだもう一冊は、産業医であり精神科医の斉尾武郎さんが書かれた「精神科医 隠された真実(東洋経済新報社)」です。この本では産業医の立場から、担当する会社の社員が通院している精神科医の処方(薬の出し方)を評価しています。

「なぜこんな非常識がまかり通るのか」という憤りをこめたエピソードが多数語られています。内科医であれば絶対にありえない矛盾やムダだらけの処方が多すぎるとのことです。副作用を恐れて効能が発揮できないほど少量の処方を行ったり、互いに正反対の効能を持つ薬を同時に出したりといったことが多く、また考えられないほどの多剤処方(多くの種類の薬を一度にのませること)が多すぎるのだそうです。

その理由のひとつとして、他者(同業の先輩など)の目が届かないところで仕事が完結していることをあげられています。

内科医であれば、研修医時代に勤務した大学病院や大規模病院で処方の基本を習った後で開業します。内科の世界では検査や診察の確かな技法があり、処方にも標準が確立していますので、我流やでたらめは起こりにくいといいます。たとえば、足の親指が痛いという患者さんであれば、血液検査を行って尿酸値が8.0以上であれば高尿酸血症であり、痛みは痛風発作であろうと診断できます。とりあえず鎮痛剤を数日分出し、痛みが落ち着いたあと、症状に応じて尿酸の排泄を促す薬を所定の量だけ処方して経過を見るということになると思います。

ところが精神科医の場合にはもともと処方に標準が確立していないようです。人間の脳の機能や生理が十分に解明されておらず、脳の複雑な働きの不具合を診断する方法論もありません。たとえば、うつ病の原因は脳内神経伝達物質セロトニンの再吸収による枯渇だといわれており、抗うつ薬としてセロトニンのレセプタをブロックする薬が使用されます。しかし、このメカニズム自体がいまだに仮説の域を出ず、セロトニン濃度の回復とうつ病の症状の緩和が連動しないという矛盾も指摘されています。そこでDSM-Ⅳ(米国精神医学会のチェックリスト)などを用いた操作的診断という手法が用いられるわけですが、これは内科のように原因を特定しての診断ではなく、症状を観察して病名を決めるという危ういものです。現代医学というより漢方に近いと思います。「見立て」に自信が持てないので、あれもこれもとたくさんの薬を処方するのだと思います。

さらに精神科の特徴として、研修医時代の大病院で診察する患者と、開業後にやってくる患者とでは、症状が全く異なることも指摘されています。鉄格子の病室が並ぶ大学病院や郊外にある大規模な精神病院には、ちょっと気分がすぐれないという程度の患者は近寄りがたく、慢性化したうつ病患者や重い統合失調症などの入院患者の診察が中心となります。結果として、研修医時代には現代病の典型である初期症状のうつ病を診察する経験はほとんどもてず、誰からも技術を学ぶことはできないのです。ところが都心に開業した「○○こころのクリニック」などの場合には、会社帰りのサラリーマンが「うつ病ではないでしょうか?」と相談に訪れます。つまり、研修医時代にほとんど経験しなかった病気を、開業後に初めて、しかも大量に扱うことになり、我流の処方にならざるを得ません。

そんな具合ですから、自分の診断と処方に自信が持てないので、過剰なまでに批判を恐れることになります。産業医から「処方がおかしいのでは?」という照会を受けると、ムキになって「俺の処方に文句があるのか!」と逆切れする精神科医も多いそうです。医師会などでは症例の研究会などが行われるそうですが、自分の事例を開示する勇気がないために出席もままなりません。結局、誤った我流を押し通すことになるとのことです。

斉尾氏によれば、まともな処方ができる精神科医は全体の3~5割ではないかとのことです。この数字はあくまでも斉尾氏の経験則ですので、確かなものではありませんが、精神科医療の抱える大きな課題が感じ取れます。

この話も、読んでいてわが身の問題として切実な印象を受けました。

大手教育会社に勤務する場合は多少事情が異なりますが、現在の私のように独立開業しているセミナー講師の世界は、いってみれば蛸壺社会です。他の講師の講義を見て新たなスキルを学んだり、自分の講義を他の講師に見てもらって批判をいただく機会が恐ろしく少ないのです。その大きな理由としては、私は各講師の秘密主義だと考えています。セミナー講師は同業者に自分の講義を見られるのをひどく嫌います。

その最大の理由は、「ノウハウを盗まれる」と思うことです。

まったくおろかな発想だと思います。盗むほどの価値のあるノウハウを持つ講師など、数えるほどしかいないでしょうし、盗んだとしても講義のスキルなどそのまま使えるものではありません。しかも、当人が自分のノウハウだと思っているものも、実は誰かのノウハウの加工品に過ぎないことがほとんどです。そもそも、ノウハウを盗まれたからといって、自分のビジネスに影響など出ないはずです。教育のマーケットは自分の稼ぎよりもはるかに広大ですから。

一方、盗む価値のあるノウハウを持った講師の講義は、さまざまな形で公開されており、本人も隠す意志を持たないことが多いのです。隠す講師は、実は自分の講義に自信がないのでしょうね。

「だったら問題ないのでは?」と感じるかもしれませんが、そうではないのです。我々講師のスキルはスポーツ選手のそれと似ており、他人のやり方をそのまま流用することは無理なのですが、他人のやり方(スポーツでいえばフォーム)を観察し、自分の講義を改善していくことは重要なのです。また、スポーツ選手がコーチに指導を受けるように、先輩講師から手直しの指導を受けることも重要です。その機会をお互いが「隠す」ことでつぶしてしまっているのです。おろかですよね。

とはいえ、隠す方の肩を持つべき事情もあるにはあります。自分の知的所有権を主張する割には、他人の知的所有権を尊重しない人も少なくないのです。もともと講師の使用する教材などは、市販文献などの公開情報を元に作成してるものが多いので、大部分は自己の知的財産とはいいがたいのですが、その配列方法や教え方にはそれなりの工夫があります。それをこっそり拝借して平然としている不心得な講師もいます。特許をとっているわけではないですが、やはりきちんと仁義を切る(許諾を受ける)のがマナーでしょう。

いまひとつの理由は、「自信がない」ということでしょうね。

なにしろ我流でやっちゃってますので、講義や演習指導など、基本的なスキルに自信がない人も多いと思います。また、自分の専門分野の知識についても、ものの本で読んだ知識だけでは実務講座で教えるには不十分ですので、自分なりの解釈を行って伝えますが、実務経験を通じて形成されたものであればそれなりに自信は持てますが、頭の中だけで勝手に構築した知識体系にすぎないものは、他人の目には「おかしい」「納得できない」と映る恐れが大です。そのような批判を恐れて「隠す」という方向に走る人も多いと思います。このような人に限って、少しでも批判的なコメントを受けると、「何が悪いんだ!」とばかりに逆切れすることも多いように思います。

と、まあこんな感じですが、「では、お前はどうなんだ?」といわれそうですが、私は自分の講義を同業者に見せることには全く抵抗ありません。もちろん「お粗末さまですが」というエクスキューズ付きですし、「批判は承ります」がポリシーです。

できれば他の講師の講義も拝見したいのですが、その機会は少ないですね。しかし、中には非常に好意的な方もおられ、ノウハウをどんどん公開してくださいます。このような方の講義を拝見した際には、深く感謝することは当然ですが、それを無断で活用することのないよう細心の注意を払います。また、批判的なコメントなどは求められるまでは慎みます。

結局、技術の世界では、お互いがオープンになった方が、密室でいるよりお互いの成長につながるんだと思います。

オープンであること。大事ですね。

すみぶち塾Sumizuku_2

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »